
ミヤモトと申します。
この度は、えがお書店に来ていただきありがとうございます。
1978年生まれで、妻、息子、娘の4人家族で仲睦まじく暮らしております。
とあるゲーム会社サラリーマンをしながら、この「えがお書店」を通じて現代を生きるたくさんの方々に楽しいことを発信できればいいなと思っています。
保育園時代
京都で生を受けたミヤモトは2才くらいに大阪に移り住みます。関西人です。
アラフォーともなると保育園時代の記憶なんてはるかかなたなんですけど、覚えてるのは、何かを作ることはとても好きだったということです。
一番熱中してたのがダイヤブロック。レゴブロックじゃなくて、ダイヤブロック。
親になって改めて思いましたが、レゴブロックって組み合わせる時もそれをバラす時も少し硬いんですよ。それに比べてダイヤブロックは硬すぎず緩すぎずですごく遊びやすくて、僕はダイヤブロック派でした。
そのダイヤブロックでひたすら何か作っていました。戦隊ヒーローモノに出てくるロボットとか、武器とか、なんかの建物とか。買ってもらえないおもちゃをダイヤブロックで作ってなんとか自分を満足させていた記憶があります。
あと、親が新しいもの好きで、突然MSXを買ってきました。
MSX(エム・エス・エックス)とは、1983年に米マイクロソフトとアスキー(現アスキー・メディアワークス)によって提唱された8ビット・16ビットのパソコンの共通規格の名称であり、MSXとその後継規格であるMSX2(1985年)、MSX2+(1988年)、MSXturboR(1990年)の総称でもある。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用
このMSXで僕はひたすらディグダクをやっていました。保育園の頃からインドアな性格が育まれていたのがよくわかりますね!
小学校時代
小学生になると、習字、そろばん、剣道と習いごとを色々と。高い月謝だったろうにどれも結構サボっていた親不孝者でした。
その中でも頑張ってたのは習字で毛筆も硬筆も字はきれいにかけてたような気がします!賞状もたくさんもらってたはず!
当時バブル真っ只中で働けば働くほどお給料がたくさんもらえた時代。両親も共働きでかなりの若さで滋賀県に2階建てマイホームを建築。3年生からは滋賀県に移り住みました。
滋賀県に来てからは、習い事はなにもせずに毎日ファミコン三昧!
友達の家で見せてもらった「ファイナルファンタジー3」に衝撃を受け、はじめてRPGにのめり込みました。その後「ファイナルファンタジー4」を友達の家で見せてもらったのですが、この頃からゲーム業界に憧れを抱き始めます。
あとは小学校時代が一番モテてたような気がします。
中学校時代
部活はバスケ部でした。
ちょうどスラムダンク世代でみんな桜木とか流川に憧れていたので、バスケ部が超人気。僕はスラムダンクを特に読んでなかったし、バスケもよくわからなかったけど、仲の良い友達がバスケ部に入るっていうからついて行ったという極めて不純な動機での入部を果たします。
案の定、途中で飽きてきて、やる気も出ないからレギュラーにもなれずにバスケ部を退部。隣のコートでやってたバレーボール部にも仲の良い友達がいたのでまた同じ不純な動機で入部。
お察しの通り、また途中で飽きます。
このころから、自分は熱しやすく冷めやすいタイプだと認識し始める。
バブル崩壊と同じくして両親が離婚。中学校2年生終了後アパート暮らしの母子家庭に。高校受験も控えためちゃくちゃ多感な時期に学校も転校します。
転校前の学校は新興住宅街にできた新しい中学校で、校舎きれい、ヤンキーいない、キラッキラな中学校。一方、転校後の学校は歴史の長い中学校でヤンキーな人たちがたくさんいる、にぎやかな学校でした。
ものすごいカルチャーショックを受けましたが、ヤンキーと呼ばれる人たちは話してみるとみんな良い人ばかりで、めちゃくちゃよくしてくれました。よく漫画とかである、ちょっと体育館の裏にこいや的なこともなく、転校したての僕に積極的に話しかけてきてくれてすごく嬉しかった記憶があります。
この時の経験はかなり自分を強くしてくれたなと今思うと感じます。当時はいろいろと大変でしたが、環境の変化が凄まじい時代をいきていくためのベースがここでできたといっても過言ではないと思っています。
高校生時代
中学校2年生まで勉強は絶望的にダメな上に、大きな環境変化もあって先生からもかなり心配される毎日。
離婚をしてしまった母親も僕に対して後ろめたさがあったのか、家庭教師をつけてくれました。
その家庭教師は教えるのがとてもうまくて、担任の先生が「絶対に無理だ」といっていたまあまあな進学校に入学することができました。
ただ、その無理が祟ったのか、入学してからの成績は地獄。勉強に全くついていけずゲーム三昧な日常に拍車がかかります。
あれは高校最後の夏休み。毎日、昼ご飯代と言って母親が置いて行ってくれた1000円をそのまま使わずに貯めて夏休み終盤でプレステ本体と「ファイナルファンタジー7」を買いました。それをみた母親も怒らずにあんたすごい!っていってました。
そんな感じなので、大学受験もうまくいくはずもなく、前々から興味を持っていたグラフィックデザインの専門学校に入学します。
専門学校時代
デジタルクリエイターを育成するクラスに入学。主にDTPを学ぶクラスでした。
専門学校への入学と同時にアルバイトを始めます。書籍、CD、ゲーム、携帯電話を売っている大きめなお店で3年ほど働きました。
アルバイトで稼いだ給料はそのまま、お店に入荷してくる新作ゲームに消えていきました。
ゲームが好きなので、ゲームコーナーの責任者になりたかったのですが、なぜか携帯電話コーナーの責任者を任されました。月に100本契約が取れると店長が焼肉をご馳走してくれました。
焼肉を食べるために、専門学校で学んだDTPの知識を駆使して各キャリアの比較表やPOPを作って勝手に店頭に貼り出したりしてなんとか契約を増やそうと頑張ってました。
書籍やCD、ゲームコーナーに比べて携帯電話コーナーは「契約数」という形で明確な貢献度が見える業務だったので、それなりにやりがいを持って取り組んでいた記憶があります。
社会人時代以降
なんだか、まだまだ転職回数が多いことを採用上のリスク(入社してもすぐ辞めるんじゃなかろうか?的な)として見る文化は日本に根付いてますね。
そんな中で僕は、これまで転職を5回経験しています。
- デザイン事務所に就職してチラシやパンフレットのデザイナーとして終電に滑り込んで帰る毎日を過ごす。
- もっと大きな仕事がやりたい!という若気の至りパワーで少し大きなデザイン事務所に就職するも終電に滑り込んで帰る毎日は変わらず。(転職1回目)
- 憧れていた某大手ゲーム会社(宣伝担当)のアルバイト募集を見つけてなんとか潜り込む。(転職2回目)
- 大きな会社に入社できたことで何か勘違いをしたのか、東京で独立すると豪語しつつ会社を辞めて上京。完全に、若気の至りでした。
- そのころ、すごい勢いで成長していたモバイルゲーム系の六本木のベンチャー企業に入社。(転職3回目)モバイルゲームやコンシューマーゲームのディレクターとして働きました。
- 給料が良かった事で何を勘違いしたのか、ガールズバーで散財する毎日を過ごします。
- 僕はゲームを作りたいんじゃない!デザインをしたいんです!という意味の分からない理由で六本木のベンチャー企業を退社。
- 独立を試みるがその時流行っていたゲーム実況動画の視聴にハマってしまい、あげくの果てには自分も動画配信をし始めちゃいます。仕事をせずに実況動画ばかり作る毎日を過ごしました。
- 自分がアップしたゲーム実況動画の視聴数の少なさに心折れて引退。生活費も底をつきかけて、これはどうにかしないといよいよヤバい状態に。
- ホームページぐらい自分で作られるようになろうと思い、WEBデザイナー(未経験可)を募集していた会社に入社。(転職4回目)
- 動画編集(ゲーム実況動画)の経験を買われて動画編集の毎日を過ごす。
- WEBディレクターの人数が少なかったため、WEBディレクターに任命される。WEBデザイナーは出来ずじまいでした。
- 結婚し、息子と娘が産まれて、東京での子育てにいろんな意味で限界を感じ福岡に住まいを移すと同時に福岡のIT系企業に転職(転職5回目)します。
- 現在、ゲームのマーケティング部署の管理職をしております。若い人が多い会社なので完全に経験の豊富さや年の功で任せてもらっていると思っています。
- 今まで何か数字的に大きな功績を残したわけではなく、自分が今の責任ある立場を任せてもらっていることがとても不思議ですが、自分なりに責任感を持って切磋琢磨する毎日です。